邪悪の記憶、緑の聖域を侵す

鬱蒼と生い茂る木々は太陽の光を完全に遮断し、森の奥深くを底冷えのする暗闇で満たしていた。風が吹くたびに、ざわめく葉擦れの音がまるで死者の囁きのように鼓膜を打つ。かつて愛天使たちが打ち倒したはずの「邪悪の木」。その残骸は完全に消滅してはいなかった。あろうことか、悪魔族の底知れぬ執念と、過去の戦いから愛天使たちの戦闘データを学習するという恐るべき知性を獲得し、この緑の聖域を文字通り「悪意の巣窟」として作り変え、再び蠢き始めていたのである。

エンジェルリリィ――谷間ゆりは、たった一人でその森の深淵へと足を踏み入れていた。彼女の洗練された青い装甲と純白のドレスは、僅かに差し込む木漏れ日を浴びて清らかに輝いている。しかし、その深い緑色の瞳には、かつての激闘を乗り越えた者ゆえの微かな憂いと、重い決意が宿っていた。

（ももこやひなぎくを巻き込むわけにはいかないわ。あの時の残骸が、これほどまでに邪悪な変質を遂げているなんて。私の手で、今度こそ完全に浄化しなければ……）

周囲の空気が急速に冷たくなり、鼻をつくような腐敗臭が漂い始めた。森の最深部、邪悪の木の本体が根を張り巡らせる広大な空間。そこに、リリィを待ち構えていた影がゆらりと姿を現した。

「ようやく来たわね、エンジェルリリィ」

声の主を見て、リリィは息を呑んだ。そこに立っていたのは、他でもないリリィ自身と全く同じ姿かたちをした「人間態」の悪魔であった。洗練された立ち振る舞い、流れるような髪の軌跡まで完璧に模倣しているが、その瞳には慈愛など欠片もなく、ただ獲物を嬲り殺しにしようとする冷酷でひきつった光だけが宿っている。

「貴女は……！ 私の姿を借りて何をしようというの！」
「驚くことはないわ。私は貴女たちが打ち倒した邪悪の木の新たな姿。貴女たちの戦闘データ、思考回路、そしてその『愛』とやらを徹底的に学習したのよ。私の新たな毒を刻み込むには、貴女が一番の標本だわ」

リリィは即座にセント・スパイラル・ウィップを構え、戦闘態勢に入った。「はぁっ！」と鋭い掛け声と共に、鞭を振るう。しかし、人間態はまるで鏡合わせのように同じタイミングでステップを踏み、その鞭を紙一重で回避した。さらにリリィが間合いを詰め、流れるような連撃を繰り出すが、その全てが人間態には見透かされていた。リリィのアンクレットが微かに鳴る回避行動の癖、攻撃に移る前のわずかな肩の沈み込み。人間態はそれらを完璧に先読みし、リリィの技を模倣して真っ向から打ち返してくる。

「くっ……先を読まれているというの！？」
「言ったはずよ、貴女のことは全て学習済みだと。その無駄のない美しい動きも、私にとってはただの退屈なデータに過ぎないわ」

防戦に回るリリィを嘲笑うかのように、人間態は巧みに攻撃を避け、薄ら笑いを浮かべながら後退していく。リリィは人間態を逃すまいと追撃を重ねるが、それこそが敵の狙いであった。気付けばリリィは、周囲を巨大な樹幹と太い根に囲まれた、邪悪の木の本体が牙を剥く完全な「罠」の中央へと誘い込まれていた。
「ここが貴女の終焉の場所よ、リリィ」


人間態が優雅に指を鳴らした瞬間、リリィの足元の地面が爆発するように隆起した。地中から、何十本もの太く、悍ましいぬめりを持った巨大な触手が、蛇の群れのようにうねりながら飛び出してきた。
「なっ……！？」
リリィは反射的にセント・スパイラル・ウィップを振るい、迫り来る触手を追い払おうとする。しかし、触手の動きはかつての知性のない怪獣のような単調なものではなかった。背後にそびえる邪悪の木本体が、まるで熟練の狩人のように無数の触手を独立して操り、リリィの武器を絡め取ろうとし、死角から別の触手が襲いかかる。

そして、左足首のアンクレットを狙い澄ました一本の触手が、勢いよくリリィの足を掬い上げた。
「きゃああっ！」
優雅なバランスを崩されたその一瞬の隙を、悪魔は見逃さなかった。無数の触手が鞭のようにしなり、リリィの四肢に次々と絡みついていく。しなやかな腕、細い腰、そして右太もものリングを容赦なく締め上げ、彼女の身体を空中に乱暴に吊り上げた。

「離して……！ 汚らしい蔓で、私に触れないで！」
「ふふふ……捕らえたわ。さあ、極上の責め苦の始まりよ」

本体の巨大な根元まで引きずり込まれ、リリィは大樹の幹に磔にされるようにして押し付けられた。拘束を解こうともがくが、触手は万力のような力で彼女の動きを完全に封じ込めている。人間態は磔にされたリリィの目の前まで歩み寄り、冷酷な笑みを浮かべた。ここから、知性を持った「人間態」と、本能のままに貪る「邪悪の木本体」による、独立した波状攻撃が牙を剥く。

「まずは、私が新しく手に入れたこの力から味わってもらおうかしら」

人間態が両手を掲げると、その指先からパチパチと不気味な黒い火花が散り始めた。彼女はリリィに直接触れることなく、少し離れた位置から指揮者のように腕を振るう。瞬間、人間態の全身から凄まじい高圧の黒い稲妻が放たれ、磔にされたリリィの身体を直撃した。

「あぁぁぁぁっ……！！」

閃光と共に、リリィの身体が大きく反り返る。直撃した電撃は、リリィの装甲を伝導体として全身の神経を直接焼き焦がしていく。装甲の表面で激しい火花が散り、その強烈な衝撃と熱によって、純白のスカートの裾が黒く焦げ付いていく。人間態は自身の意思で電圧をコントロールし、リリィが気絶しないギリギリの激痛を執拗に流し続けた。

「どう？ 私の電撃の味は。でも、これで終わりじゃないわ。本体（あちら）も、貴女を味見したくてたまらないようだから」

人間態が電撃を浴びせ続ける中、リリィの背後の大樹からさらなる触手が蠢き出した。人間態の放つ電撃の影響を一切受けないその特異な蔓は、痙攣するリリィの身体にぬるりと這い寄り、青い装甲の隙間から彼女の柔らかな肌へと直接張り付いた。特に太い数本の触手が、リリィの愛の力の源泉である胸元へと密集し、無数の吸盤を押し当てる。

「やめ……やめて……私の、力を……！」

触手は、リリィの内側に宿る純粋で神聖な「愛のウェーブ」を、強引に、そして貪欲に引きずり出し始めた。人間態による「外側からの焼けるような電撃の激痛」と、邪悪の木本体による「内側からの凍えるようなエネルギーの搾取」。二つの完全に独立した悪意が、同時に一人の愛天使を蹂躙する。

「ああぁぁぁぁぁぁっ！！ いやぁぁぁぁっ！！」

かつてない二重の苦痛に、リリィの悲痛な絶叫が冷たい森の奥深くに響き渡る。肉体は止むことのない黒い稲妻によって激しく痙攣し、精神は最も大切にしていた愛のウェーブを汚らわしい蔓に啜り上げられる徒労感と屈辱感で、ボロボロに引き裂かれていく。

「ふふふ、あはははは！ 素晴らしいわ！ 焼かれる痛みと奪われる恐怖、その両方を同時に味わう気分はどうかしら！」
人間態は愉悦に満ちた表情で高笑いしながら、さらに電撃の出力を上げる。同時に、邪悪の木の触手もそれに呼応するように脈動を速め、ズズズ……というおぞましい音を立ててリリィの生命力ごと愛のウェーブを飲み込んでいく。

激しい負荷に耐えきれず、遂にリリィの肩を覆っていた青い装甲が甲高い音を立てて砕け散った。破片が宙を舞い、純白のドレスは触手から滲み出る泥と粘液、そして焦げ跡によって見る影もなく汚されていく。胸当てにも深い亀裂が走り、彼女の洗練された美しさは、今や圧倒的な暴力の前に崩壊していく砂の城のようであった。

莫大な愛のウェーブを吸い上げた邪悪の木の本体は、そのエネルギーを悪意へと反転させ、妖艶で毒々しい紫色の光を放ち始めた。樹幹はさらに巨大に膨れ上がり、枝葉は禍々しい刃のように鋭く変貌していく。そして、本体からエネルギーを供給された人間態の身体もまた、どす黒いオーラを纏い始めた。

「最高ね……あぁ、力が漲ってくるわ！ 貴女から奪った愛が、私をさらなる完全なる高みへと導いてくれたわ！」

人間態は歓喜に打ち震えながら両手を前方に突き出した。ウェーブを奪い限界を超えて力を増した彼女から放たれる電撃は、もはや稲妻という次元を超え、極太の破壊の光線の奔流となってリリィを完全に呑み込んだ。同時に、邪悪の木の触手も最後の一滴まで絞り尽くすように、リリィの胸元の装甲を粉砕し、その内側の光を根こそぎ吸い上げる。

「あああぁぁぁぁぁぁっ……！！」

断末魔のような叫び声すら、轟音を立てる雷撃の音にかき消される。残っていた装甲は完全に粉砕され、左足首のアンクレットも、右太もものリングも、その輝きを完全に失って黒く焼け焦げた。彼女の内に秘められていた愛の輝きは、最後の一滴まで悪意の闇に飲み込まれてしまった。

事切れるまで止むことのない、強化された電流の嵐と、底なしの吸収。強烈な痺れと圧倒的な力の喪失、そして全身を貫く破壊的な熱量により、リリィの強靭な意志も遂に限界を迎え、緑色の瞳から光が失われ、意識は深い暗闇の底へと完全に沈んでいった。

雷鳴が止み、焦げ臭い煙が風に流されていく。
人間態はゆっくりと手を下ろし、自らの手で完成させた凄惨な芸術作品を見上げるように息を吐いた。

すべての愛を奪い尽くされ、砕け散った装甲と引き裂かれたドレスを纏い、裂け目だらけの無残な姿で巨大な樹幹に磔にされた一人の愛天使。糸の切れた操り人形のように項垂れ、ピクリとも動かなくなった彼女の姿を見て、人間態は満足げに妖しく微笑んだ。

森は再び不気味な静まり返りを見せ、そこにはただ、完全なる敗北を受け入れ、絶望の供物と化した彼女の虚ろな姿だけが、冷たい風に晒されていた。圧倒的な敗北の余韻が、邪悪な森の瘴気とともに、いつまでもいつまでも漂い続けていた。